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超大型の熱と咳風邪

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12月6日(土)に、徐々に熱が出て

12月7日(日)の熱は38度5分を超えてしまった

12月8日(月)一度は37度台に下がった熱が、さらに上がった

40度...久しぶりに40度を超えた

熱のせいで足がふらついた

体の不快感は、今まで味わったことがない

最悪の状態

熱が下がって上がっての繰り返しで、まるで先が見えない

咳も出るし、しんどいし...

インフルエンザの注射...打っとけばよかった

でも注射嫌いだし...

自分にとって、これほど身に染みた感動秘話は無い。
自分の意図しない疾病によって人生を奪われた横田慎太郎氏が、もう一度野球をやるという強い意志をもって闘病に臨んだ壮絶な実話だ。
物事に対する実直さが半端ない。
目標のために辛いことを乗り越える...言葉では簡単だが、先の見えない現実では、簡単に心が折れてもおかしくない。
余命を宣告され、迫りくる最期にも決してひるまず、精一杯生きた氏に頭を下げずにはいられない。
氏の思いが心に満ちている今、自分にとって何ができるのか、何を目標とすべきか、どうやれば到達できるか、先が見えてきた人生において後悔しない生き方をするにはどうすればいいか...
病魔との闘いから若くして命を失った氏の生きざまは、自分にとっての指針となった。
辛い時ほど頑張る、自分は一人で生きてるんじゃない、自分の周りにいる人のおかげで命を繋げている。
2023/07/19 17:28
横田慎太郎さん(コラージュ。2021年10月、鹿児島県日置市の母校・東市来中学校で撮影)
横田慎太郎さん(コラージュ。2021年10月、鹿児島県日置市の母校・東市来中学校で撮影)
 元プロ野球阪神の外野手としてプレーした横田慎太郎さん=鹿児島実業高校出身=が2023年7月18日午前5時42分、死去した。28歳。現役引退の原因になった脳腫瘍が昨年に再々発していた。

 引退後は鹿児島県日置市で1人暮らしをしながら、講演活動などを続けた。南日本新聞には2022年から1年間、「横田慎太郎のくじけない」(月1回)を寄稿。連載スタートにあたり、プロ4年目の17年2月に脳腫瘍(しゅよう)と告げられ「頭の中が真っ白になりましたが、もう一度野球をやる、必ずグラウンドに戻ってくる、と強く心に誓いました」と振り返った。

■「目標持ち少しずつ前へ」

 引退後の講演活動では「自分と同じように病気で苦しんでいる人、悩んでいる人を勇気づけたい、助けたいと思っています」。連載を通じて「子どもたちには目標を持って諦めない心を伝えたいです。世の中には苦しいこと、大変なこともいっぱいあるけれど、目標を持って少しずつ前に進めば、幸せなことが起きます。ぼくが奇跡のバックホームができたように」とつづった。

 子ども面「オセモコ」での連載だったが、大人の読者にも人気が高かった。

■「最後の港で一緒に降りよう」

 紙面掲載時のタイトルは、1回「スポ少 礼儀作法の教え基礎に」▽2回「プロの世界 いっそう努力も厳しい現実」▽3回「病気との闘い 『野球をやる』心の支え」▽4回「グラウンド復帰 制限ある練習 精いっぱい」▽5回「病院訪問 患者さんと気持ちつながる」▽6回「引退 目の状態戻らず決意」▽7回「帰郷 『勇気と希望を』発信決意」▽8回「2度目の入院 先見えず、母に弱音」▽9回「家族の支え 付き添いや電話が力に」▽10回「球団の支え 『戻れる場所ある』希望に」▽11回「朝の散歩 『普通』の日常に感謝」▽12回「小さな目標 『一人の時間』大切に」―。

 「『治療をやめたい』。先の見えないつらさに初めて弱音を吐いた僕に、母はこう言いました。『船に乗ったら、途中では絶対に降りられないよ。最後の港で一緒に降りよう』」―。闘病の苦しさとそれを支えた家族への感謝をはじめ、球団関係者から「(背番号の)24番を空けて待ってるぞ」と言われたときのうれしさ、当時の監督・金本知憲さんの熱い激励や、2軍監督の掛布雅之さんから「独りに強くなれ」とアドバイスされ、抗がん剤治療で一番苦しい時の支えになったことなどを丹念につづった。

■「絶対に神様が見ている」

 連載後の特集面(22年12月)では、子どもたちに向けメッセージ。「入院中に、病室のベッドに横になったまま、ゴムボールを上に投げて取るトレーニングを繰り返しました。『絶対に神様が見ている』と信じてやり続けました。それが最後の試合での、奇跡と言われたバックホームにつながったと思います。
 みなさんも自分がどうなりたいか考え、成功した時を想像して頑張ってください。思春期で反抗したくなる時もあるでしょうが、親や周りの人への感謝を忘れないでください」としめくくった。

【プロフィル】
 横田慎太郎(よこた・しんたろう)さん 1995年、東京都生まれ。3歳で鹿児島に引っ越し、日置市の湯田小学校3年でソフトボールを始める。東市来中学校、鹿児島実業高校を経て、2013年にドラフト2位で阪神タイガースに入団。3年目は開幕から1軍に昇格した。

 17年に脳腫瘍(しゅよう)と診断され、2度の手術を受けた。19年に現役引退。引退試合となった2軍戦で、途中から中堅の守備に就き、本塁突入を試みた走者をノーバウンド送球でアウトにする"奇跡のバックホーム"を見せた。

 20年に脊髄腫瘍(せきずいしゅよう)が見つかり、21年に治療を終えた。鹿児島を拠点に講演、病院訪問、動画サイトの配信など幅広く活動。父・真之さんも元プロ野球選手。著書に「奇跡のバックホーム」(幻冬舎)。

頚椎神経症発症

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夏風邪を引いた。熱は37度ちょい。葛根湯を飲んで休んだ。

次の日には熱が下がった。と思ったら、また熱が上がった。

次の日、熱は下がったが、背中が痛くなった。右肩甲骨あたり。

ピンポイントで痛くなり、その後、右手全体に痛みが走った。

指先の痺れ、肘の痛みと痺れ、肩の痛み。

痛さと痺れを我慢できなくて、近所の整形外科に行った。

レントゲンとMRIによる診断だと、ストレートネックによる首頚椎の作用。

それが神経を刺激しているとの診断。

痛み止めの薬を処方してもらったが、いっこうに改善しない。

寝る時が、とにかく辛い。どんな格好でも腕が痺れて痛い。

医師によると、治癒は早くて3ヶ月ほどらしいが。

長びくような気がする。

仕事に影響するのも怖い。

今日で休みも...

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終わりだ。

今年も頑張って仕事をせにゃなりません。

筋肉痛

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土曜日の木の伐採の後遺症が。

両腕が筋肉痛。

タイガーバームを塗ったり、ロキソニンを貼ったり。

2日経ったが、まだ筋肉痛が続いている。

危険な車線変更

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事務所に向かう途中で、危険な車線変更をする車に遭遇。

白のプリウス、ナンバーは118

最初は高速道路の降り口付近の側道で、いきなりウインカーを出して前に入ってきた。

その時は出口料金所が近いこともあって譲ったが、

料金所を通過後、片側二車線の左側を走っていく、そのプリウスを見ながら右車線に入り走っていたら、ほぼ真横時点で右車線に入ろうとした。

車が見えてないのか、運転に集中してないのか。

間に入りたいなら、もっと早くウインカーを出すのが基本だろう。

一回だけならまだしも、二回やられると腹が立つ。

反面教師としては最高の糞バカ見本だ。

正義中

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こうなる事は、よくない。

でも、仮に自分(または縁者)が被害を受けても

相手を許せるか?

相手にも理由があると体裁ぶることこそ危険。

「罪を憎んで人を憎まず」

こんな言葉は使っちゃいけない。

そうでなければ被害者は泣き寝入りするしかない。

罪を犯すのは「人」

自分が被害者の立場になればよくわかるはず。

きれいごとを言ってる人は100%近く、被害者じゃない。

明日(5/2)は仕事

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連休の中休みにする事

事務所ビルのコーキング部分にスプレー塗装

ひび割れ部分にコーキング

壁落ち部分のパテ埋め

原稿5枚ペン入れ

関節痛?坐骨神経痛?

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3月24日(木)にゴルフをした時、腰(右足の付け根)が痛くなった。

筋肉痛だと思ってほっておいたら、一週間後激痛で歩行困難に。

杖をつかないと歩けないほどだった。

足を一歩踏み出す瞬間に痛みが走る。足を着けば痛みは消える。

そんな状態なので、動くことを躊躇してしまう。

トイレに行くときに困ってしまった。

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4月7日(木)は一日痛かった。

8日(金)は早朝に飛行機で帰郷だったので、どうなることかと思ったが、

杖をほとんどつかないで歩けた。夜の飛行機帰宅のときも問題なかった。

9日(土)は、痛みが嘘のように消えた。

最近の体調

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あんまり芳しくない。

足を上げたら太ももの筋肉がつるし、

出かけて、歩いて、電車に乗って、長時間椅子に座って、

一日が終わるころ、腰痛発症し、

次の日、足腰がまともに動かない。

肩こりもひどい。

年齢のせいには、したくないな~

でも、歳食ったせいだな~

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